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「鏡の視点」とは
鏡リュウジが何を感じ、何を思考しているか。気楽なものからレクチャー的要素もからめた雑文コーナー。海外のアカデミズムの世界で占星術を扱う論文などの紹介も積極的にしていく予定です。

井筒俊彦と「占い」
2019/6/14


またまた素晴らしい本を頂いてしまいました。
井筒俊彦 英文著作コレクションから『東洋哲学の構造 エラノス会議講演集』(慶応技術大学出版局)2019です。
イスラーム哲学研究で知られた伝説的な学者、井筒俊彦への評価は最近ますますたかまっていて、慶応大学から全集も出るようになってきました。
英文でのみ発表されていた論文もこうして続々と翻訳されるようになっています。
井筒はユングが中心的な役割を果たしたエラノス会議の常連発表者でもあり、世界中の恐るべき知性が集結するこの優雅な会議の場が、日本である井筒を世界に知らしめる重要な発信源にもなっていたのです。
今回いただいた本は、そのエラノス会議での講演を集めた貴重なものです。その中でも、僕にとってとてもありがたかったのは「『易経』マンダラと儒教の形而上学」という講演の翻訳でした。
易経は言うまでもなく占いのテクストですが、同時に儒教の根本的な経典でもあるわけで哲学の書でもあります。
井筒はこの易経の思想をユングの言うマンダラと重ね合わせて理解しようとしています。と同時に、ユングのいうマンダラのみが東洋における精神の表現形態ではなく、「アンチ・マンダラ」とでもいうべき表象がとくに禅仏教においては存在することも指摘しつつ、易の成り立ちから構造をわかりやすく解説しています。
難解な井筒の講演や発表の中では比較的理解しやすいものと言えるでしょう。
占いに関心をもつ僕にとっては、このペーパーはとても重要なものでした。
このペーパーと関連して、2015年5月に井筒俊彦全集の月報に発表した僕のコラムもありますので、それをここに再掲させていただきます。今読んでもちょっと面白いこと書いているなと思っています。

(鏡リュウジ記)

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井筒俊彦と「占い」

「占い」を看板にメデイアで活動を始めてからもうずいぶん経つ。継続は力なりとはよくいったもので、かなりの数の本を出させていただき、雑誌連載ももつことができるようになった。だが、その一方で自分の仕事、あるいは人生においてある種の「居心地の悪さ」を僕はいまなお抱えている。なぜか。一言でいえば占いは「アヤシイ」からだ。そして、そのアヤシサとは、占いが俗にいう「神秘主義」的であるからにほかならない。
占いとは英語ではDivinationである。Divine すなわち神的なるものの意志をオラクルを通して伺うという行為である。占いがアヤシイのは、この「神的」な存在が近代以降、脱魔術化、脱聖化された世界には実在しないということになったからだ。だから、アカデミズムではこの次元を扱うことは相当の勇気がいることになる。少なくとも内在的な視点から語るのは客観性の放棄というリスクを抱えることになる。
しかし、いわば霊的知識人ともいえる一群の学者たちは、近代においてもその領域に果敢に飛び込み、理性を手放すことなく不可視の世界を語ろうとしている。ユングをはじめあのエラノス会議に集った一群の人々がみなそうだったといえるだろう。井筒俊彦もその一人だったと僕は考える。
井筒の『イスラーム哲学の現像』には、ぼくの知るなかでもっとも明瞭な「神秘主義」の定義がある。要約してみよう。まず、この現実は垂直的多層性をもっており、通常認識されている以上の次元が存在する。そしてそれに相当する意識の多層性が存在し、意識の水準が変化すれば、現実の表れも変化してゆく。意識が深まるほどに表層的現実の背後にある存在…「本質」の実相がさまざまなイマージュとして浮かび上がるのであり、その顕現、表現の仕方がさまざまなな「神秘主義」の流派となっている、というのである。
イスラームの神秘主義や禅などは、高度に意識を研ぎ澄まし、表層的な世界を顕現させている「自我」を解体してゆく。井筒のいう「意識のゼロポイント」を目指して突き進み、そして今度はそのポイントから帰還しようとする。
その道程で現れるさまざまなイマージュを渉猟、整理し、そこに現れる「東洋的」哲学の「共時的構造」を抽出しようとするのが、井筒俊彦の壮大な構想だったということもできよう。
そして、そのイマージュの一つの例として、井筒は伝統ある占いである「易」をとりあげるのである。
引用してみよう。
「『元型』イマージュのみによって構成された雄大なシステムを、私は古代中国の『易』に見る。『易』の表す世界は、まさに一つのmundus imaginalisであり、その構成要素はことごとく『元型』イマージュ的次元における事物、事象の『本質』である、六十四卦も、またその基礎にある八卦も。」(『意識と本質』\)
引用を続けよう。
「『易』の全体構造は、天地の間にひろがる存在世界の『元型的』真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系となる。…八卦も六十四卦も、ただ存在世界を外から客観的に、いわば科学態度で、観察して、そこに事物の普遍的、永遠不変の『本質』を見出してきた、というようなものではない。とはいえ、事物の観察は、たしかに、そこにありはする、しかもきわめて緻密な、そしてある意味では非常に厳格な観察が。」
「科学的態度で事物をいかに綿密に観察し分析しても、そこから八卦のような『本質』は出ては来ない。意識の働き方そのものが始めからまるで違っているのだ。外界の事物を眺めながらも、それを見る意識は深層で働くのである。…『易』の聖人の意識は広い意味でのシャマン的意識。そういう意識に直結した特殊な目で、彼は外界を見る。その彼の目に、事物は幽玄な象徴性を帯びて現れてくる。その象徴性は、経験的存在秩序とは根本的に異なる『元型」的存在秩序の象徴性である」(『意識と本質』215−218頁)
具体的には八卦の一つ「坤」は自然界では大地、血縁関係では母、器物では釜、色では黒…と照応関係の織物が無限に続いてゆく。占いではこの象徴を何らかの操作によって取り出し、世界を日常とは別の次元から観ることによって事象のパターンを深層から紡ぎなおす。これはとくに「易」一人の特徴ではない。西洋占星術では「月」は水界、母、容器、子宮、銀…と照応の連鎖が続く。まったく易と構造的には同じなのである。
占いとは井筒のいう「意識のゼロポイント」と日常の表層的現実の中間にあるイマージュ領域での営みとだということになる。
さらに井筒は「占い」のイマージュの特質を鋭く指摘する。
「但し、なんといってもこれ(易の卦)はもともと占筮の言葉であり、神託、占辞の類の常として、その文は謎めいていて短く、従ってそれのかもし出す意味空間は極度に狭い。」(『意識と本質』259頁)
この「狭さ」を僕はあえて肯定的にとりあげたい。所詮は占いごと、だから射程距離が短く意識の層としては浅薄なのだ、と解釈するならそれこそ傲慢というものだろう。
僕たちは意識のゼロポイントからはるか離れた表層次元の日常を生きている。その中で愛を仕事を感情を生きている。あまりに深層的なリアリテイはその中ではほとんど役に立たぬ。日常からほんの少し深く、だからこそ狭い空間に現れるコトバを紡ぐことでこそ、占いは日常を生きる凡夫の僕たちに寄り添うことができる。意味空間の「狭さ」「小ささ」を大切に抱える占いが、やはりぼくはいとおしくて仕方ないのである。



井筒俊彦全集(慶應義塾大学出版会)
http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html

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